孤独な、死
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先日NHKで放送された「無縁死3万人」が反響を呼んでいるらしく、数多の人たちが色々感想を述べている、らしい。
正直、それほど興味ある内容ではなかったので殆ど未チェックだったのだが、Twitterなどで漏れ聞く感想などに耳を傾けていると、どうもしっくりこない感じを受けた。
結論から言えば、誰にも看取られず一人で死んでいくこと、そのこと自体に何の問題があるのだろうか?誰かに看取ってもらう死と、看取られない死に何の違いがあるというのか?
もし違いがあるとしたら、それは残された側の問題であって、死ぬ側の問題ではないだろう。
死は常に孤独だ。死だけではなくて、生きる事も本来は孤独だ。何故なら、自分の生も死も、それを代行する者がいるわけでもないし、不可能だからだ。自分だけが担うもの、それが生と死であり、考え方によってはこれらを二分するのは不適当なのではないか、とすら思っている。
俺が多くの論調から受けた違和感は、この本質的に孤独であるはずの死を、あたかも集団や共同体の中で迎える事が出来れば幸せだ、それ以外は不幸である、という感じの言説をちらちらと見かけたことから生まれたのかもしれない。
「そうは言っても一人で死ぬなんて」と思う人も当然いるだろう。しかし、自分一人だけが死ぬという現実は変わらない、例え集団自殺したとしても、である。死は誰ならぬ自分にこそやってくるのだ。
ではそう考えた時、孤独死、また無縁死と呼ばれるものの恐怖や問題意識の正体は何か。これは恐らく、死と言う本質的に孤独な要素に対する、人間の本能的な恐怖なのだろうと思う。他者の死を見て自分の死、孤独をより強調して捉えてしまう事、そのことに今回の話の本質の一つがあるとは言えないだろうか。
また孤独死や無縁死と呼ばれる死の、社会的コストの問題もあるだろう。元来、社会において、家族などに看取られる事を前提にしてきた死は、看取るもの=事後処理の主体者の存在を前提にして来た(臨終確認、死亡手続き、葬式、埋葬など)。しかし、コミュニティへの参与が希薄な独居者の増加により、これらの処理は行政や一部の業者が行う事例が増えている。しかし、あくまで社会の前提は家族が看取る事になっている。
そう言った意味での社会コストの増加、というよりも変化に、現代人の意識がまだついていけていないというのも、大きな理由の一つなんだとも思う。
と、ここまで書いておいて思ったのだが、ちら見もしなかったような番組のテーマに対して、俺もここまでよく言えたものだと、自分の厚顔無恥ぶりにちょっと苦笑している。
